2020年9月

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皆さん、こんにちは。イカリファームでは、八月末から、稲刈作業のシーズン真っ盛りです。それはずばり、お米が美味しい季節ということですね。店頭には、既に、「みずかがみ」と「コシヒカリ」の新米が並んでいます。まもなく、「みずかがみ」も収穫されてお届けできるようになりますので是非、お楽しみにお待ち下さいませ。

先日、9月5日(土)の新米イベントにお越しくださいましたお客さまが、毎日土鍋でお米を炊いておられるとお話して下さいました。土鍋でご飯を炊くのは、時間が掛かったり残ったご飯の温め直し等大変そうなイメージがありますが、慣れると簡単で、土鍋で炊いたご飯は、やはりとっても美味しいそうです。

以前から、土鍋で炊くご飯を毎日食べたいと思っていた私は、気に入る土鍋を探すのを楽しんでいるところです。もし、土鍋を手に入れて、美味しく炊けましたらまたお伝えさせていただきますね。

さて、今日は、「暮らしの要る、要らない」の話をさせていただきます。物が充足し、溢れ出す社会になって、そこから更に情報も溢れ出す社会になって久しいですが、私たちはまだ、多すぎる物と情報と上手く付き合う方法を手に入れているとは言えないということを日々感じています。
自分自身で制御する、防御するという意識がなければ、あっという間に自分の生活に物と情報が大量に入ってきて、私たちの生活を埋め尽くしてしまうことは、多かれ少なかれ感じている人が多いと思います。

物で溢れた状態でいることが心に与える恐ろしい影響は、「ストレスが溜まる」「集中できない」「自由を奪われる」「前進できない」ことだという話を聞いたことがあります。これは、情報であっても同じことが言えます。雪崩れ込んでくる物と情報を、意識的に制御する事ができなければ、幸せと逆行する状態に陥ってしまう可能性が高いということですよね。

誰にとっても人生の時間も力も、お金も有限です。そしてその有限の資源が、自分にとって大切なことに使われる割合が高ければ高いほど幸せを感じやすいですよね。自分にとって大切で無いただ雪崩れ込んで来ただけの、物や情報に侵されてしまっているとしたら、とても勿体ない事です。

でもだからといって、この大量に雪崩れ込んでくる物や情報の取捨選択を一つずつ行っていたら、私たちの人生はそれだけで終わってしまうとも思います。今溢れている物や情報の一つずつが要る物なのか要らないものなのか選択するのでは無く、基本的には要らない物と考えて、「どうしても要る物」だけを自分で把握して、選び取って行くという生き方が今、誰にとっても必要なのではないかと思うのです。

例えば、生活必需品で考えてみましょう。私たち日本在住の大半の方が「当たり前に必需品」だと思って、買い続けている物が沢山あります。洗濯洗剤や食器用洗剤、掃除用などの洗剤類、食品用ラップ、歯磨き粉。スーパーやドラックストアに行ったら、無条件にカゴにポイポイと入れているのではないでしょうか。

玄関や台所やトイレ等のマット類やテレビ、電子レンジ、トースター。沢山の食器・衣類・沢山のおもちゃや過去や現在の趣味のもの。

勿論要る物と要らない物が混ざっているのですが、前提として要ると思っていることにより、要るかどうか考えたこともないアイテムがあるのでは無いでしょうか。
一つ一つよく考えて見ると、必ず、絶対に必要という訳ではない、無くても良い、むしろない方が良いものが存在することに気が付きます。

例えば、洗濯用の合成洗剤の成分表示を見たことがありますでしょうか。洗浄成分以外の化学物質の添加物が沢山入っています。これが皮膚疾患の要因の上位に合成洗剤がいつも入っている理由です。暮らしの中の化学物質は、食器用洗剤にも含まれます。私は、洗浄成分のみ使うという意図で、粒状の「過炭酸ナトリウム」と繰り返し使える「マグネシウム」のみを使用して洗濯をしていますが、殆ど生活に問題がありませんし、むしろ子どもと家族の健康に安心でとても気に入っています。

また、食器用洗剤についても、食器に洗剤が残り匂いや味がするのを感じますし、食事をする際に微量ずつでも継続的に摂取し続けることを避ける為に、食器用洗剤を使いません。適切な道具を使い、お湯で丁寧にしっかりと擦り洗えば、とてもきれいに洗うことができ、洗剤の香りや味がすることも無く、気持ちよく食事をすることができています。「びわこ布巾」という商品は、琵琶湖の水質汚染予防の為に作られたガラ紡の布巾で、食器のこびりつき等もしっかり落とすことができ、消毒を行えば長期的に繰り返し使うことができます。

要らない物を無くすこと自体にもメリットがありますが、副産物として、洗剤類を定期的に買う手間と時間とお金が減ることは、その他の事に手間と時間とお金を使う余力が増えるということですのでとても有意義なことです。

また、テレビ、レンジ、トースター等も要らない場合や、代替の効く場合が考えられますし、食器や衣類については、最低限の数にすることもできますよね。
私は、食器は基本的に数種類、人数分のみ、客用も想定される人数分最低限しか持ちません。

衣類についても、スティーブジョブズが黒いTシャツとジーパンしか身に付けないという、衣服の制服化を行っているのは有名です。自分の選択・情報を減らし、大切な事に使う脳や心、体、時間の容量を目減りさせずに確保しているのです。同様に、衣類の種類や数の固定化や厳選をして、迷う時間を減らすことや、本当に好きなものを奥深く味わうこと、選択の精度を上げることによって自分のキャラクターを内外で貫くことを大切にする生き方をされる方も増えてきましたよね。

私も、流行のミニマリストや断捨離スト、スティーブジョブズ等の天才たちと同じようにではありませんが、基本的には、衣類の素材は自然素材の物と決めていたり、色柄は基本的に、白かベージュ単色で固定とか、アイテムは動きやすいシャツとスカートか緩いズボンだけ等、縛りを設けて衣服を減らし、選択や悩み、行動数を減らしながらも、自分の好きを追求しています。

時間の使い方、仕事の仕方でも、「これはする」「これは大切」と選択した物は取り入れますしとても大切にしますが、選択したい程でない物については、基本的には全て「要らない」という前提で考え、できるだけ取り入れないように工夫しています。

情報で言うと、テレビを殆ど見ませんし、スマートフォンは、在宅中は玄関のスマホスタンドに置き、「今要る」というタイミングに意識的に使う時以外には、基本的には傍に置きません。そのことによって、子どもや家族との顔を見てのコミュニケーションや、家事、趣味や読書、休息その他の自分にとって「要る」ことに、自分の心も行動も時間も向けることができています。

特に、親と子供が顔を見て会話する時間を死守することは、現代の子育てにおいてとても重要なことだと思っています。

「要る」ことを選び取り、「要らない」ことを勇気を持って捨てていくことは、「要る」ことをより充実させ、自分の幸せを育てることに直結していると感じます。「要らない」と判断して捨てたことにより、生まれた「要る」の入る余地に、自分にとっての幸せを更に増やして行けるということだからです。

冒頭の土鍋でご飯を炊くという話に戻りますが、土鍋でご飯を炊いていると話して下さったお方は、皆と同じ24時間、皆と同じ社会に暮らしているわけですが、炊飯器よりも多少時間と手間の掛かる土鍋でお米を炊く時間や心のゆとりが確保できているということです。それを選択しているということは、それ以外の「要らない」ものに侵されている時間が少なく、生活を彩る自分にとっての「要る」を入れることができる状態にあるということなのかなと想像するのです。

家電メーカーが競って製造している炊飯器の売りは、「土鍋で炊いたご飯」のような味です。お釜が実際に土鍋だったり、炊き方が土鍋に近かったりするのでしょうが、よくよく考えたら、数分の短縮の為に、便利だけど高価で本物ではない土鍋風炊飯器を買うのと、安価で本物の土釜で少しだけ時間と手間を掛けて自然で本当に美味しいご飯を食べるのとどちらがいいのかなと考えた時、私は、炊飯器に頼る程忙しく時間をケチらなければならない状態にもしあるならば、その分捨てることのできる要らない事を捨てて、自分の心と体の健康を創り出すご飯を炊くのに数分の時間を掛けることに何も苦労も感じません。むしろ、人生の中で大きな割合を占める楽しみであり、自分の健康を創り上げる食事の主食であるご飯を炊くことに時間や手間を惜しまない暮らしはとても魅力的だと感じます。

人の暮らしの選択には違いがありますし、正解は無いのですが、いつの間にか染みついた今の暮らしの選択、物、情報を改めて一つ一つ見つめるようにして、自分にとっての「どうしても要る物」が見えてくると、どんな人にとっても、人生が少しずつ輝き出すような気がしてなりません。
こんにちは。いつの間にか、少し前まで聞こえていた「アブラゼミ」や「ミンミンゼミ」の声が聞こえ無くなって、蝉の声といえば、「ツクツクボウシ」だけになってきました。

あちこちの田んぼで、稲刈りのコンバインも一斉に動いています。私の娘を含め、公園に集まった子ども達も皆、コンバインに大興奮で、いつまででも農道から作業風景を見ています。

そして、ふとコンバインの先遠くに視線を移すと、田んぼがどこまでも広がっています。私たちが農業を営む近江八幡は、琵琶湖、諸河川、山々等に恵まれた平野なので、市街地以外は、どこに行っても見渡す限り、田園風景が広がっています。こういう風景は、どれだけの年月続いて来たのでしょうね。

日本の田園風景は、とても美しく、私のような田んぼの多い地域で育っていない日本人にとっても、故郷の風景であると思います。世界的に見て、国土が小さい上に圧倒的に個人農家の数が多いこれまでの日本の農業は、1枚1枚の小さい田や畑が家族総出で大切に丁寧に管理されていることにより、他国の農業とは違う形で、独自の家族の在り方・働き方の価値観や、地域ごとの田園風景を創り出して来ていますよね。

北から南まで気候も違えば、盆地、平野、山の斜面の棚田等、場所も違い、暮らしや土地条件に大きく違いがあるにもかかわらず、日本全国各地で農業が営まれていること自体が、奥深く、凄いことだと感じます。

そしてそれを支えて来たのは、私たちが特に外国と比べる機会が無ければ気付くことができないけれど、当たり前に心に沁みついている「農業を愛する心」なのだと思います。

今、日本では少子高齢化が進み、日本人全体の人口減少と連動して、農業に携わる人の人口が減っています。これまでの、個人農家で小さい田んぼを家族皆で手分けして管理し、次の世代に引き継いでいくという流れから、祖父母の代で田を手放し大規模経営体に任せるという流れに変わっています。

家族から、組織に田の管理が引き継がれて行くこと自体は止めることの難しい流れですが、その中でも、家族で田を耕していた日本の農耕民族の心や故郷の景色の良い所は、引き継がれて行って欲しい、引き継いで行きたいと思うのです。

組織で農業を行い、経営を行うということは、家族経営とは違う利益を追及する部分が出てくることは当たり前ですし、新しい価値観で新しい農業の形が築かれて行くのだと思います。

しかし、「環境を保全する」「食を重んじ、丁寧に作物を育てる」「景観を守る」「感謝して戴く」「皆協力して働き、地域・家族仲良く」等、日本の農業が築いて来た日本人にとって大切な故郷の心の在り方は、見えにくいものでは有りますが、現代の日本人の幸せにも直接的に通じることだと感じる事だと思うので、大切にされて後世に残っていくようにと願って止みません。

私たち自身も、長く農業を続けるために、柔軟に新しいものを取り入れて必要に応じて姿を変えながらも、これまでの農業の引き継ぎたいものを失うことの無いよう意識していきたいと思います。